2010年4月7日水曜日

鎌倉湘南1 (鶴岡八幡宮)2010.03.13

鶴岡八幡宮は、京都の石清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義が前九年の役で奥州の安部氏を平定した後、康平6年(1063)8月、京の石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜郷に勧請し社殿を創建した。その後、治承4年(1180),源頼朝が鎌倉入りするや由比ガ浜の八幡宮(元八幡)を,この地小林郷に移した。建久2年(1191)には武士の守護神の宗社に相応しく上下両宮の現在の姿に整えた。源頼朝が,この高台に社殿を作った時は、既に平家は滅亡し、奥州・藤原氏も討伐し,全国60余州を平定した時であった。翌年には、征夷大将軍になり、まさに頼朝の絶頂期であった。鎌倉はこの頃は既に、京都と並んで政治文化の中心となっており頼朝は関東の総鎮守となって崇敬されていた。以来、鶴岡八幡宮は常に鎌倉のシンボルであり、幕府の儀式や行事はすべてここを中心に行われた。また武門のシンボルとしても豊臣、徳川家から手厚い信仰を受けていた。     (参照 from   http://www.kamakura-burabura.com/ )

01) 参道の桜芽吹く・段蔓

由比ヶ浜海岸より八幡宮へ一直線に延びる凡そ2kmの参道を、若宮大路と称します。その名は八幡宮御創建当時の「鶴岡若宮」という名称より採ったと思われ、御創建間もない養和2年(1182)、政子の安産を祈願して、源頼朝公自らの指揮のもと、御家人たちが土石を運んで築造したと、吾妻鏡は伝えています。鎌倉の街作りの一環としての若宮大路は、京都の朱雀大路を模したもの。  若宮大路の特徴は、道の中央に二筋の葛石を置き、その間を高くした「段葛」と呼ばれる形であることです。あたかも道の上に更に道を置いたように見えることから、置路・置石ともよばれており、他に類を見ないこの道は、境内と共に国の史跡に指定されております。段葛は社頭から由比ヶ浜まで続いていたのですが、後に地震の被害を受けるなどして、明治には現在の二ノ鳥居までの長さに短縮されました。しかし、大正6年の補修の際に植えられた桜並木が、四季折々の姿で、参拝する皆さんの心を和ませてくれます。現在、若宮大路には松樹の植樹が進み、往古の松並木が甦りつつあります。 (参照 from http://www.hachimangu.or.jp/walk/index.html )
02) 八幡宮交差点前(途切れない参拝者)

03) 鶴岡八幡宮正面・いざ参拝

04) 鶴岡八幡宮(源平池際の桜)

05) 鶴岡八幡宮(参道・参拝者)

06) 鶴岡八幡宮(舞殿・若宮- 左松の奥に大銀杏が)
舞殿は、本宮への石段の前に建つ、入母屋造りの建物。ここは、かって舞いの名手で、源義経の愛人であった、静御前の悲しい逸話が残っています。吉野山で捕らえられた静御前は、源頼朝に舞を命ぜられ「吉野山みねのしら雪踏み分けていりにし人のあとぞ悲しき」と義経を慕う歌を詠み舞った。これが頼朝の怒りをかい、義経の子と、自らの命を失う悲劇が生まれた。
(参照 from   http://www.kamakura-burabura.com/ )



07) 鶴岡八幡宮(流鏑馬馬場に咲く桜)
”流鏑馬”とは、奈良時代の宮廷を中心とする貴族の間で流行っていた、相撲、鷹狩、競馬(くらべうま)、騎射(うまゆみ)などの日本古来の、伝統技の(スポーツ)一種で、流鏑馬は直線120間(約218m)の走路の片側三ヶ所に設けた 『的』 を全力疾走する馬上から射る競技です。 平安時代には宮廷行事として盛んに行なわれた”流鏑馬”でしたが、武家時代に入ると兵士の修練の一つとして取り入れられ、養和元年(1181)8月、それまで簡素だった鶴岡八幡宮の宮殿が改築整備され、よく寿永元年、北条政子の安産を願い段葛(だんかずら)が造営され、鶴岡八幡宮への奉納行事とし盛んに催されたのが 『流鏑馬』 であったそうです。  (参照 from http://sssin007.com/yabusame.htm )
08) 鶴岡八幡宮(若宮大路を望む)

09) 鶴岡八幡宮(左・社務所、右・幼稚園)

10) 鶴岡八幡宮(鳥居手前左・国宝館)

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