宇都宮辻子(うつのみやずし)とは、鎌倉にあった小道(辻子)のひとつで、この通り付近に鎌倉幕府の有力御家人宇都宮氏の鎌倉邸があったことから宇都宮辻子と呼ばれた。1225年(嘉禄元年)に鎌倉幕府の御所が大倉からこの地に移された(宇都宮辻子幕府)。 宇都宮辻子は、鎌倉時代に鎌倉の鶴岡八幡宮から由比ヶ浜(相模湾)に向かって南北に延びる若宮大路の二の鳥居のすぐ南側(現住所では鎌倉市小町二丁目付近)にあった小道(辻子)で、若宮大路とその東側の小町大路の間を東西に結んでいた。下野国宇都宮社の神職で、平安時代末期に京で左衛門尉を務めるなど鎌倉幕府の有力御家人となった宇都宮朝綱ら宇都宮氏の鎌倉の居館がこの界隈にあったことからこの名で呼ばれた。鎌倉幕府(政庁)は第3代執権北条泰時によってそれまでの大倉から宇都宮辻子に南面する北側の地に移転され、宇都宮辻子幕府と呼ばれた。現在は宇都宮辻子幕府跡に宇都宮稲荷神社が鎮座しその面影を残す。 ( 参照 from http://ja.wikipedia.org/wiki/ )
2) 閑静な路地裏(小町2)
3) 閑静な路地裏(宇都宮稲荷)
宇都宮稲荷神社は、宇都宮朝綱の祖先藤原通兼関白の曽孫宗円が、日光山宇都宮神社の別当職にあったため、当地にその分霊を勧請し、稲荷神社を建てたと云われています。神社の前には辻子幕府跡の石碑がたっており、その敷地の広さは東西、南北とも約200mだったと推定されています。 ( 参照 from http://www.esquare-kamakura.net/ )
4) 賑やかな若宮大路(JR鎌倉駅付近)
4) 若宮大路からの駅舎(JR鎌倉駅)
5) 大巧寺(だいぎょうじ) (JR鎌倉駅東口徒歩3分)
元応2年(西暦1320年)日澄上人の開山で創建され、〝おんめ様〟の愛称で親しまれ、正式には長慶山正覚院大巧寺といいます。 元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所の梶原屋敷にありましたが、頼朝が平家との戦いのとき、この寺で練った作戦で大勝したため大巧寺と改め、現在、地に移されました。 正面の朱色の門には「頼朝評定所」と記された碑が建てられており、また、5世住職の日棟上人が難産で亡くなった女性の霊を鎮め産女霊神として祀ったため、以来、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになり、安産祈願に訪れる参拝客が多いといわれています。最初は真言宗でしたが、日蓮が妙本寺にいた文永11年(西暦1274年)、住持が日蓮に帰依したことから、日蓮宗に改宗し、妙本寺の末寺になりました。 鎌倉入りした直後の源頼朝がここで軍議を開き大勝した戦いは、時期的に見て、平安時代末期、治承4年10月20日(西暦1180年)の平維盛を大将とする平家の大軍と、頼朝軍が富士川で睨み合った富士川の合戦と考えられ、維盛軍は駿河国の富士川に布陣、 一方の頼朝軍は黄瀬川に布陣していました。遠く奥州平泉から弟の源義経が参陣し、兄源頼朝と感激の対面をしたことも、この時の黄瀬川の陣ででした。 ( 参照 from http://www.esquare-kamakura.net/ )
6) 大巧寺(元は頼朝の祈願所で大行寺から改名)
4) 若宮大路からの駅舎(JR鎌倉駅)
5) 大巧寺(だいぎょうじ) (JR鎌倉駅東口徒歩3分)
元応2年(西暦1320年)日澄上人の開山で創建され、〝おんめ様〟の愛称で親しまれ、正式には長慶山正覚院大巧寺といいます。 元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所の梶原屋敷にありましたが、頼朝が平家との戦いのとき、この寺で練った作戦で大勝したため大巧寺と改め、現在、地に移されました。 正面の朱色の門には「頼朝評定所」と記された碑が建てられており、また、5世住職の日棟上人が難産で亡くなった女性の霊を鎮め産女霊神として祀ったため、以来、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになり、安産祈願に訪れる参拝客が多いといわれています。最初は真言宗でしたが、日蓮が妙本寺にいた文永11年(西暦1274年)、住持が日蓮に帰依したことから、日蓮宗に改宗し、妙本寺の末寺になりました。 鎌倉入りした直後の源頼朝がここで軍議を開き大勝した戦いは、時期的に見て、平安時代末期、治承4年10月20日(西暦1180年)の平維盛を大将とする平家の大軍と、頼朝軍が富士川で睨み合った富士川の合戦と考えられ、維盛軍は駿河国の富士川に布陣、 一方の頼朝軍は黄瀬川に布陣していました。遠く奥州平泉から弟の源義経が参陣し、兄源頼朝と感激の対面をしたことも、この時の黄瀬川の陣ででした。 ( 参照 from http://www.esquare-kamakura.net/ )
6) 大巧寺(元は頼朝の祈願所で大行寺から改名)
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