2010年8月1日日曜日

番外17 栃木・日光の旅 2010.05.05

1) 男体山 (標高2,484.2m) :R120 明智平より
明智平 : 第2いろは坂をほぼ上りきった、眺望に優れたポイントが明智平だ。名づけたのは天海大僧正-てんかいだいそうじょう-といわれている。天海大僧正とは、織田信長に謀反を起こし山崎の合戦で敗れた、あの明智光秀-あけちみつひで-という説がある。       
男体山 : 山体は日光国立公園に属す。日本百名山のひとつ。  古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂には日光二荒山神社の奥宮がある。  男体山という山名は、東北側の山続きの女峰山との対で付けられたものと考えられる。 
 (参考: http://ja.wikipedia.org/ より。 )
 

(2) 日光二荒山神社中宮祠 唐門
男体山の山頂にある二荒山神社奥宮-おくみや-と、日光山内にある二荒山神社本社-ほんしゃ-の中間にあるので、中宮祠と呼ばれている。延暦-えんりゃく-3(784)年、沙門勝道-しゃもんしょうどう-が山頂をきわめたあと、ここに二荒権現-ふたらごんげん-をまつる社殿を建てたのがはじまりである。
 (参考: http://ja.wikipedia.org/ より。 )


(3) 日光二荒山神社中宮祠 登拝門
  本殿の右に、「男体山奥宮登拝口-なんたいさんおくみやとうはいぐち-」と書かれた四角い柱が建てられた山門が。   ここが開けられるのは、毎年5月5日の開山祭-かいざんさい-から10月25日の閉山祭-へいざんさい-までの、ほぼ5か月半の間だけである。この期間中は、社務所に申し出て、この門から男体山に登ることになる。 ただし、奥宮に参る伝統行事である登拝祭のおこなわれる7月31日からの1週間、特に31日の真夜中、午前0時はたいへんに混雑する。全国に50ほどある二荒山登拝講の人たちをはじめ、多くの参拝者が詰めかけて、境内は数千の人であふれ返る。そこで、危険防止のため、100人ずつ区切って登山させるようにしている。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/perfect/chuzenji/ より )


(4)  日光二荒山神社中宮祠  拝殿


(5) 華厳の滝
日光には四十八滝といわれるくらい滝が多いが、最も有名なのが華厳ノ滝である。高さ97メートルをほぼ一気に落下する豪快さと、自然が作り出す華麗な造形美の両方をあわせ持つ。和歌山県の那智ノ滝-なちのたき-、茨城県の袋田ノ滝-ふくろだのたき-とともに「日本の三大名瀑-めいばく-」とも呼ばれる。名称は涅槃ノ滝-ねはんのたき-、般若ノ滝-はんにゃのたき-などと一緒に仏典の「釈迦-しゃか-の五時教-ごじきょう-」から名づけられたらしい。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )



(6) 華厳の滝
滝を間近で観覧できるようになったのは、明治33(1900)年。7年もの歳月をかけて星野五郎平-ほしのごろべい-が滝壷-たきつぼ-近くに茶屋を開いた。そして明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。堅い岩盤をくり抜いたエレベーターが営業を開始したのは昭和5(1930)年になってからである。 6月にはたくさんのイワツバメが滝周辺を飛び回る。1月から2月にかけては十二滝と呼ばれる細い小滝が凍るため、華厳滝はブルーアイスに彩られる。 なお、問い合わせが多いので、明治36年5月26日(または22日)に記した藤村操の「巌頭之感」全文を掲載しておこう。 ≪悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーに値するものぞ。萬有の真相は唯一言にして 悉す。日く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。≫
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )



(7) 日光東照宮
徳川家康公は慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられて江戸に徳川幕府を開く。秀忠公に2代将軍の座を譲ってからも大御所として天下ににらみをきかし、自分の死後について重要な遺言を残した。「遺体は久能山(静岡)におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守-ちんじゅ-となろう」
 元和2(1616)年4月17日、家康公は駿府(静岡)で75歳の生涯を閉じる。翌年、日光に社殿が造営され、朝廷から東照大権現の神号が贈られた。遺言どおり、神としてまつられたのである。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(8) 日光東照宮
 家康公が目指した「八州の鎮守」とは、現代風にいえば「日本全土の平和の守り神」である。日光は江戸のほぼ真北にあたる。家康公は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(9) 日光東照宮 御仮殿
 御仮殿は、本社を修理する際、神霊を一時的に移しておく建物。寛永16(1639)年の建立とされる。本殿の建て替えや修理にあたっては仮設の社殿を建て、新しい本殿が完成したらそれを取り壊すのが一般的だが、日光東照宮では本社の修理が頻繁だったため、御仮殿は常設の建物になっている。御仮殿といっても本社と同じく拝殿・相の間・本殿からなる権現造り-ごんげんづくり-。神霊が御仮殿に移っているときは、すべての神事が御仮殿の境内でおこなわれ、神事に必要な神楽殿-かぐらでん-・護摩堂-ごまどう-・神輿舎-しんよしゃ-・雪隠-せっちん-などが仮設される。神霊を御仮殿に移すことを外遷宮-げせんぐう-といい、これまで19回おこなわれた。文久3(1863)年以降は一度もない。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(10) 日光東照宮 石鳥居
 黒田藩52万石の藩主、黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した石造りの鳥居で、高さ9メートル、柱の太さ3.6メートル、柱の中心の間隔が6.8メートル。京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれるが、江戸時代に建てられた石造りの鳥居としては日本最大。後水尾-ごみずのお-天皇が書いた「東照大権現」の額だけでも畳1枚分の大きさがある。使われている石は筑前(福岡県)産の花崗岩で、エジプトのピラミッドなどと同じ、土嚢-どのう-を積む方法で引き上げた15個の石材で組み立ててある。石材を心棒で継ぎ、柱の上に渡した笠木・島木は軽量化のため空洞がある。こうした耐震設計の働きで、昭和24(1949)年に日光を襲った地震のときは、最初の強い揺れでかなりずれた継ぎ目が、余震で元の位置に戻ったという。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(11) 日光東照宮 美術館へ
 以前から評判だった杉戸絵や襖絵、障壁画、額、軸物などのある旧社務所・朝陽閣を、日光東照宮美術館として公開した。昭和3(1928)年に完成した朝陽閣は、当時の木造建築物としては日本随一という声も上がったが、杉戸や襖などは「白紙」状態だった。そこで、まず日本画壇の重鎮横山大観が大傑作の襖絵「朝陽之図」を完成。大観の意を受けた中村岳陵、荒井寛方、堅山南風の3画伯が2か月の合宿のすえ、建物内に大小151点の日本画を描いた。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(12) 日光東照宮 陽明門
 陽明門の名称は、宮中(現・京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名をいただいたと伝えられる。江戸時代初期の彫刻・錺金具-かざりかなぐ-・彩色といった工芸・装飾技術のすべてが陽明門に集約され、その出来栄えは一日中ながめていてもあきないので日暮らし門とも呼ばれる
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(13) 日光東照宮 陽明門回廊・石垣・灯篭
 陽明門から左右に延びる廊下が回廊で、総延長220メートル。コの字に本社を囲んでいる。回廊の外側の彫刻は、欄間に雲、胴羽目に花鳥と動物、腰羽目に水鳥というふうに、天・地・水にちなんだものが彫り分けられている。どれも1枚坂の透かし彫り。 東回廊から石の間に通じる20メートルの廊下が御供廊下で、神前に供える神饌を運ぶ。虹梁-こうりょう-に描かれた墨絵の浪、雲と鳳凰が見事。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(14) 日光東照宮 奥宮参道


(15) 日光東照宮 奥宮参道の立て札


(16) 日光東照宮 鋳抜門(いぬきもん)
 扉を除いて、柱や梁などをひとつの鋳型でつくったことから鋳抜門と呼ばれている。門前の石段から、にらみをきかせているのは狛犬。そして、門の袖にいるのは蜃-しん-。「ツバメを食べ、気を吐き、楼台城郭を描き出す」という。蜃気楼の蜃である。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(17) 日光東照宮 奥宮宝塔・鋳抜門
 宝塔に納められているのは家康公の神柩-しんきゅう-。建立以来、一度も開けられたことがない。 宝塔は最初は木造、後に石造りになり、さらに天和3(1683)年の大地震で破損したものを5代将軍綱吉公が現在の唐銅製に造り替えた。唐銅とは金・銀・銅の合金。宝塔の前に置かれた鶴のロウソク立て・香炉・花瓶は、朝鮮通信使が運んできた朝鮮国王からのプレゼント。宝塔の傍らの木は「叶杉-かのうすぎ-」と「楓-ふう-」。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(18) 日光東照宮 奥宮宝塔
高さ5メートルの宝塔は、8角9段の石の上にのっている
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


(19) 日光東照宮 奥宮宝塔狛犬(石段右下)


(20) 日光東照宮 奥宮宝塔狛犬(石段左下)


(21) 日光東照宮 奥宮からの帰り参道


(22) 日光東照宮 御本社内


(23) 日光東照宮 御本社内



(24) 日光東照宮 鐘楼・鼓楼 
 鐘楼は釣鐘、鼓楼は太鼓を納める建物。陽明門の前に左右対称に配置されている。向かって右が鐘楼で、左が鼓楼。 建物の規模や構造など基本的な形式は同じだが、細部の飾り付けをよく見ると違いがある。たとえば、彫刻の種類と数。陽明門に向かって右側の鐘楼には鶴・竜・飛竜-ひりゅう-・麒麟-きりん-・波など合計78体に対し、左側の鼓楼には亀・竜・雲など38体。装飾は、鐘楼のほうが豪華である。
( 参照 : http://www.nikko-jp.org/ より )


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